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雑草について 送信日時  2011/04/09 23:15
最近、一気に春めいてきた。この辺の桜も満開が近い。
桜だけではない。多くの植物が、冬の眠りから一気に目覚める時期である。
やっぱり、この時期は、自然と心がウキウキしてくるね。

我が家の庭にも、緑がどんどん芽生えてくるんだなぁ・・・と、
そんなことを考えていると、ふとお母さんとの「雑草」についてのやり取りのことを思い出した。

お父さんは、庭の雑草を抜くことに、昔からすごく抵抗を感じてきた。
「庭ををきれいにする」という目的で、雑草を抜くのだけれど。
では、「雑草」とは何か。
「雑草」は人間が勝手につけた呼び名。何が雑草で、何が雑草ではないのか。お父さんには理解できない。
お父さんは、自生する植物が大好きだ。
どこからともなく種が自然と風に運ばれてきて、偶然にも我が家の庭先に落ち、春になって自然と芽が出る。
これは、自分が意識的に庭に植えて育てたものよりずっと価値があり、いつも自然の偶然に感動している。

雑草と呼ばれるものも、本当の名前を持っているが、植物学に疎いお父さんは、それぞれに付けられた名前をあまり知らない。
でも、ハコベ、タンポポ、オオバコ、ツユクサなどは知っていて、これらは子供の頃から親しんできた草である。。
幼稚園の頃にひよこを飼っていて、おばあちゃんから「柔らかいハコベを食べさせたら元気が出る」と言われ、来る日も来る日もハコベを探していた。
ハコベの白く可愛い花を見ると、春の柔らかな日差しとおばあちゃんの笑顔を思い出す。
小学生の頃、友達とオオバコで草相撲をして遊んだ日々。雨上がりの朝、雫をまとったツユクサの可憐な花。
雑草には、いろいろな想い出がある。

お父さんが小さい頃は、今のように庭などなく、大阪の小さな文化住宅の長屋でひしめき合って暮らしていた。
だから、今、我が家に庭があり、そこに雑草が生え、バッタやコオロギが住みつき、働きアリが巣を作っているのを眺めていると、すごく幸せを感じる。

お母さんからよく「お父さんは、庭掃除をしてくれない」と言われることがあったが、最初の頃は、「雑草もれっきとした植物で、花を育てていると思えばいい」といっては反感を買い、「雑草を抜けば、虫の住み家がなくなる」と言っては怒られ、「雑草が生えたところで、別に人間に危害を加えるわけではない」と言っては、屁理屈だと言われた。
そう、お母さんの言うことが常識的で正しいのだろう。
○○のおじいさんもよく「雑草は、小さいときから抜いておいたほうがいい」といって、いつも庭をきれいにしていた。
近所の誰もが庭掃除に精を出し、ホームセンターで買った可愛い花を綺麗に植えて、周辺の雑草を「邪魔だ、害だ」と言っては抜く。
そうして整備された庭は、見た目には本当に美しい。
でも、自分が植えて育てた花だけが美しいのか。雑草には価値がないのか。
また、雑草が生えることで、そんなに自分や家族の生活に悪影響を及ぼすのか。
雑草を抜くと、バッタがいなくなり、コオロギの声もしなくなる。
秋の夜に、庭先からコオロギの声が聞こえてくるたびに、いつも感動している。
自分の敷地の中に小さな自然があるなんて、本当に贅沢なことだ。

お父さんは、こうも考える。
見た目にあまり美しくない自生した草を「雑草」と呼び、邪魔だからといって引き抜くという行為は、つまりは自分と異なった色や体つきをしている人間への差別心に繋がっていると思えてならない。
黒人差別、アイヌ差別、ハンセン病患者への差別など、その根源は同じではないか。
色、形、性格が異なる人間も、それは「個性」だと思う。植物もまた同じ。
自分にとって害になるものでない限り、必要以上に区別することは、差別だと思う。
人間を差別することだけが「差別」ではない。
いつの時代も「差別」がなくならないのは、人間のこういった意味のない区別を、何の疑問も持たずに繰り返してきているからだと思う。

お父さんは堅物で、おかしな考え方をしていると、ほとんどの人が思うのだろう。
でも、お父さんは、自分の考え方は正しいと本気で思っている。
たとえ変人と言われようが、お父さんの考えは間違ってはいないと思う。

貴方達はどう感じるのか、いつかは聞いてみたい。