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「拝む」という意味について 送信日時  2012/04/14 22:27
日本人は、仏壇や墓や神棚に手を合わせ、拝む習慣がある。
日本人だけではない。世界中の人達が、それぞれ神や宗教に祈りを捧げる。
お父さんは、宗教には興味はないが、祈りを捧げることによって自分を省みる時間を作ることは、とても意義あることだと思う。

さて、みんな何を祈っているのだろうか。

お父さんは、最近までは、自分や家族にとって「平和でありますように」「健康でありますように」「事故が起きませんように」、そういうことばかりお祈りしていた。
でも、2年くらい前からは、そういう気持ちで拝むことに違和感を感じるようになった。

仏や神に手を合わせるのは、自分が救われたいから。
世界中の全ての人が、そういう思いで祈り続けている。
でも、人によって「救われたい」という感覚は、それぞれに異なっていると思う。

お父さんは、この頃は、「今日もこうして生かせていただき、ありがとうございます」「今日も感謝の気持ちを忘れずに生活します」そう思いながら仏壇や墓に手を合わせている。
ちゃんちゃらおかしいと、笑われそうだね。
でも、「感謝」の気持ちを維持できたら、それが、心の平穏を生み、健康な身体を作り、幸せな気持ちになり、周りにも幸せを与えられるようになると思うようになった。

今までは、心の中のどこかで、自分の境遇や将来を嘆き、不平不満を心に宿していたように思う。そういう感覚を持ち続けることが、自分自身を不幸に陥れていた。
本当は不幸ではないのに、他人と比較したり、現実に起きてもいないことで不安になったりして、わざわざ自分から不幸を作り上げてきた。

生きてさえいれば、何とかなるし、「苦しい」というのも、心の持ちようで楽になれる。
他人の言動や行動に惑わされずに、自分の生き方を見つめよう。そう考えるうちに、「苦しみ」を解決するための根本原理は、「感謝」の気持ちを持つことだということに行き着いた。

純粋に「感謝」の気持ちで手をあわせることができ、ただ生きているだけで、とても幸せなことだと思える日が来れば、「自分が救われる」ことに到達できるのだと思う。
お父さんのような利己的でちっぽけな人間には、なかなか身につかないと思うが、毎朝欠かさず「感謝」の気持ちで手を合わせて生活すれば、それが自己暗示になって、そのうち心の中に根付くようになるかもしれない。
そして、私利私欲がなくなり、全ての人に優しくなれるような気がする。