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神風特攻隊 | 送信日時 2011/07/24 20:00 | ||
お父さんは、夏になると、うちわと浴衣とセミの声を思い出す。 そして、太平洋戦争で多くの人々が亡くなったことが脳裏をよぎる。 8月15日の終戦記念日が近づくと、戦争の記録や回顧などのドキュメンタリー番組、広島長崎の原爆関連の番組、戦争映画などがテレビ欄を埋める。 お父さんも戦争を知らない世代だが、こういった番組のおかげで、戦争のない平穏な毎日がいかに大切かということを、いつも忘れないでおくことができる。 「夏は戦争の番組ばかりで、ワンパターンでつまらない」と言う人もいるが、人類の大きな過ちと、あの忌まわしい惨劇を忘れないために、毎年、嫌と言うほど戦争の記録をテレビで流して欲しいと思う。 貴方は、いつも戦争の番組を見たがらない。 戦争の悲惨さや、血生臭い映像に目を覆いたくなるのはもっともなこと。 しかし、あの当時は、たとえ目を背けたくても、逃げたくても、そうすることが許されず、じっと現実を見据えて、「お国のために」と、戦争に邁進していくしか、選択肢はなかった。 そして、成人軍人だけではなく、女性や、貴方より若い青年たちも・・・ それを思うと、お父さんの胸は、張り裂けそうになる。 十代の若い青年が、国のためにと、自らあっけなく命を捧げていった「特攻隊」。 正式には「特別攻撃隊」と言うが、爆撃機や人間魚雷で、敵艦にぶつかって自爆する。 特に「神風特攻隊」は、アメリカ軍も「カミカゼ」と呼び、とても脅威を与えていた。 いや、脅威というより驚異であったのだと思う。自分の命までを投げ出して国のために散っていくという行為が、外国人にはきっと驚きで、理解し難いことだったに違いない。 さらに胸が苦しくなるのは、その特攻生たちが、いざ出陣する直前になっても、みんな肩を組みながら笑っていたこと。 そして、若い彼らの最期の手記。 とても若者とは思えないその内容に、心を打たれると同時に、言いようもない憤りを感じる。 これらの手記は、本になって出版され、今では、youtubeなどでも見ることが出来るが、その一部を紹介する。 特攻で戦死する直前に、大切な人へ宛てたものである。 (S20.5.4手記 海軍少尉 19歳) 〜母親に宛てて〜 ----------------- 僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。 お母さん、よく顔を見せて下さい。 しかし、僕は何にも「カタミ」を残したくないんです。 十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。 お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。 それが僕の別れのあいさつです。 ------------------ (S20.4.12手記 陸軍少尉 23歳) 〜婚約者に宛てて〜 ----------------- あなたは過去を生きるのではない。 勇気を持って過去を忘れ、将来新活面を見出すこと。 あなたは今後の一時一時の現実の中に生きるのだ。 自分は現実の世界にはもう存在しない。 (中略) 今後は明るく朗らかに 自分も負けずに朗らかに笑って征く ----------------- 何故、将来ある若者を、単なる兵器のひとつとして、簡単にも海の藻屑と散らせていったのか。 はたして、軍の幹部は、そんなことをして日本に平和が訪れると、本気で思っていたのだろうか。 「自爆」を強要するような異常事態は、もう敗戦したのも同じ。誰が考えてもわかることなのに、学卒の偉い政治家や軍幹部には、それがわからなかったのだろうか。 これ以上、大切な国民の命や財産が失われないよう、どうして別の道を選ばなかったのだろうか。 お父さんは思うに、閣僚や軍幹部は、みんな「もうすぐ日本は負ける」と思っていたに違いないが、誰もが言い出せなかったのだと思う。 あの挙国一致の雰囲気の中では、自分だけ悪者(?)にはなりたくなかったのだろう。 「戦争をやめよう」「降伏しよう」と、勇気を持って進言する人が少しでもいてくれたら、神風特攻隊も、そして原爆投下もなかったかもしれない。 日本を守るべき最高権者である彼らは、自分の保身だけのために、大切な家族や恋人が待つ何人もの若者を、いとも簡単に犠牲にしてしまった。 そして、最後は原爆で何十万人もの尊い命が・・・ 今年の大震災では、特に原発事故に対する対応がずさんで、常に後手に回っているが、現代の政治家達も、戦時中のような浅はかな保身だけはしないように祈る。 最後に、無念にも散っていった若者達の、特攻前の笑顔の写真を添付しておく。 |