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墓参 送信日時  2011/10/22 18:40
最近は、毎週欠かさずに●●家の墓を参ることにしている。

仏壇や墓に手を合わせると、敬虔な気持ちになる。
しかし、お父さんは決して特定の既成宗教を信仰したいわけではない。
祖先から浄土真宗を信仰してきたから、浄土真宗の源光寺にお世話になっているが、別にキリスト教でもイスラム教でもヒンズー教でも、何でも構わない。
ただ、自分の心が迷わないように、手を合わせて敬虔な時間を持とうとしているだけ
「宗教」というものは、弱い人間に対し、自分の心を写し、人生を正しく歩いていくために与えてもらった道具だと思っている。

今日、墓参りをした。
花が枯れていたので、挿し替えようと思っていたが、よく見ると、まだ茎や葉が青々としている。
たとえ花びらは朽ちていても、まだまだ命をつなごうと、精一杯生きているのを感じた。
とても生命の水を絶つことはできず、きれいな水に替えて、再び挿して帰ってきた。

この花は、9月の彼岸に生けたもので、もう1か月以上もこの墓で生き続けている。
毎週、墓参りに来るたびに、取り替えようと思うのだが、生命の力を感じ、水を取り替えるだけで済ましてきた。

特に○○の人々は、墓を大切にする。
周りの墓は、いつも新鮮な花が生けられている。
少しでも花に艶がなくなれば、さっさと新しい花に挿し替えている。
見栄えはいいが、その度に、花たちは途中で命を摘まれる。

仏教でもキリスト教でも、墓には必ず生花を飾る習慣がある。
しかし、お父さんは、この行為には、とても疑問を感じている。
このことについては、次回、ゆっくりと話すことにする。

ということで、これから何回かは、「宗教」について触れてみようと思うが、
つまらんだろうけど、乞うご期待!!!

何はともあれ、今朝の愛宕山墓地は、空気が澄んでいて、とても穏やかでした。

PS:写真を添付しました。
今日の墓参りで取り替えずに残してきた枯れ花
花としての命は終わったかもしれないが、今もまだ頑張って水を吸い続けている。