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供花 送信日時  2011/10/30 21:32
前回に続き、墓参りで思うこと。
 
今日も、墓掃除がてら墓へ行った。
生けた花は完全にしおれ、ようやく取り替えることにした。
 
今日からは造花にした。
墓に造花を飾るくらいなら、やめておいた方がいいと言う人が多いけど、花がないとやはり殺風景なので、造花を挿して帰った。
本当は造花まで挿さなくても、墓の後ろには、春先から自然に生えたタンポポが、今でも活き活きと咲き誇っている。
お父さんは、ずっとこのタンポポをかわいがってきた(笑)。
最初は、ひっそりと1輪が咲いただけだったけど、それがどんどん増えて、あまりにも茂ったので、夏に少し抜いてしまった(かわいそうだったけど、世間体に負けてしまった)。
今でも5株ほどが咲き誇っている。
西洋タンポポだと思うが、本当に生命力が強い植物である。
 
首を切られた痛々しげな生花を供えるより、玉砂利の上に活き活きと咲く雑草を育てる方が、先祖を供養するには良いと思う。
他人から見ると、きっと「非常識だ!」と怒られるだろう。
でも、その「常識」も、人間が勝手に作ったルールであって、自然の理から逸脱しているものがいかに多いか。
生け花にしても、人間の勝手な美意識の生贄になっているだけ。
誰もがそれに気がついていない。
もし、人間より賢く強い存在がいるとしたら、お父さんは、こんなことを空想してしまう。
人間の頭や手足をちょん切って、バランス良くケンザンなんかに挿して、やれ「芸術」だの「風流」だのと言っては楽しんでいる。
私たち人間は、こういうことを、何の疑問も感じずにやっているのだ。
 
お父さんの学生時代(S54)、歌手のイルカさんが「いつか冷たい雨が」という歌を発表した。
その歌を初めて聴いたとき、歌詞の内容に大きなショックを受けたのを覚えている。
YOUTUBEで聴けるので、●●●も暇があれば、ゆっくり聴いてみるといいが、すごく難しい問題を提起している。
この曲に対して「偽善だ」だとか「センチメンタリズム」だとか、「ヘドが出る」なんて言う人もいたけど、簡単にそう言い切れるほど、人間は完成された生き物ではない。
 
例えば、その歌詞の一節
♪「牛や鳥やお魚も人間の為にあるのよ。さあ残さずに食べなさい」 そんな風に言うおかあさんには、なりたくありません♪

添付した写真は、6月頃に撮った墓のタンポポ。
今でもまだ元気です