神風特攻隊が存在したこと

夏になると、うちわと浴衣とセミの声を思い出す。
そして、太平洋戦争で多くの人々が亡くなったことが脳裏をよぎる。

8月15日の終戦記念日が近づくと、戦争の記録や回顧などのドキュメンタリー番組、広島長崎の原爆関連の番組、戦争映画などがテレビ欄を埋める。
私は戦争を知らない世代だが、こうした番組のおかげで、戦争のない平穏な毎日がいかに大切かということを、いつも忘れないでおくことができる。
「夏は戦争の番組ばかりで、ワンパターンでつまらない」と言う人もいるが、人類の大きな過ちと、あの忌まわしい惨劇を忘れないために、毎年、嫌と言うほど戦争の記録をテレビで流して欲しいと思う。

戦争番組を見たがらない人は多い。
戦争経験者にとっては忌まわしい惨劇を思い出したくないから、そして若者にとっては単に興味がないから。
戦争の悲惨さや、血生臭い映像に目を覆いたくなるのはもっともなこと。
しかし、戦争当時はたとえ目を背けたくても、逃げたくても、そうすることが許されず、じっと現実を見据えて、「お国のために」と、戦争に邁進していくしか、選択肢はなかった。
そして、成人軍人だけではなく、女性や若い青年たちも・・・
それを思うと、私の胸は張り裂けそうになる。

十代の若い青年が、国のためにと、自らあっけなく命を捧げていった「特攻隊」。
正式には「特別攻撃隊」と言うが、爆撃機や人間魚雷で、敵艦にぶつかって自爆する。
特に「神風特攻隊」は、アメリカ軍も「カミカゼ」と呼び、とても脅威を与えていた。
いや、脅威というより驚異であったのだと思う。自分の命までを投げ出して国のために散っていくという行為が、外国人にはきっと驚きで、理解し難いことだったに違いない。
さらに胸が苦しくなるのは、その特攻生たちが、いざ出陣する直前になっても、みんな肩を組みながら笑っていたこと。

神風特攻隊

 

そして、若い彼らの最期の手記。
とても若者とは思えないその内容に、心を打たれると同時に、言いようもない憤りを感じる。
これらの手記は、本になって出版され、今では、youtubeなどでも見ることが出来るが、その一部を紹介する。
特攻で戦死する直前に、大切な人へ宛てたものである。

僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかも知れない。
お母さん、よく顔を見せて下さい。
しかし、僕は何にも「カタミ」を残したくないんです。
十年も二十年も過ぎてから「カタミ」を見てお母さんを泣かせるからです。
お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。
それが僕の別れのあいさつです。
(S20.5.4手記 海軍少尉 19歳)
あなたは過去を生きるのではない。
勇気を持って過去を忘れ、将来新活面を見出すこと。
あなたは今後の一時一時の現実の中に生きるのだ。
自分は現実の世界にはもう存在しない。
(中略)
今後は明るく朗らかに
自分も負けずに朗らかに笑って征く
(S20.4.12手記 陸軍少尉 23歳)

 

何故、将来ある若者を、単なる兵器のひとつとして、簡単にも海の藻屑と散らせていったのか
はたして、軍の幹部は、そんなことをして日本に平和が訪れると、本気で思っていたのだろうか。
「自爆」を強要するような異常事態は、もう敗戦したのも同じ。誰が考えてもわかることなのに、学卒の偉い政治家や軍幹部には、それがわからなかったのだろうか。
これ以上、大切な国民の命や財産が失われないよう、どうして別の道を選ばなかったのだろうか。

私が思うことは、閣僚や軍幹部は、みんな「もうすぐ日本は負ける」と思っていたに違いないが、誰もが言い出せなかったのだと思う。
あの挙国一致の雰囲気の中では、自分だけ悪者にはなりたくなかったのだろう。
「戦争をやめよう」「降伏しよう」と、勇気を持って進言する人が少しでもいてくれたら、神風特攻隊も、そして原爆投下もなかったかもしれない。

日本を守るべき最高権者である彼らは、自分の保身だけのために、大切な家族や恋人が待つ何人もの若者を、いとも簡単に犠牲にしてしまった
そして、最後は原爆で何十万人もの尊い命が・・・

最近では東日本大震災を始めとした大災害が頻繁に起きており、特に原発事故に対する対応がずさんで、常に後手に回っているが、現代の政治家達には、戦時中のような浅はかな保身だけはしないように祈るばかりである。

そして、あの狂気に満ちた戦争を二度と繰り返さないためにも、マスメディアには嫌というほど血なまぐさい戦争ドキュメント番組を流し続けて欲しい。