お墓に花を供えることの疑問

お墓には生花を供えるもの?
何故?

我が家では、これまで、盆・正月・彼岸・それぞれイベントごとに墓や仏壇をきれいにして、生花を生けてきた。
私の住む地域では、特にイベントがなくても、毎日のように墓参し、常に新鮮な生花を絶やさず生けているご家庭が多い。

しかし、私は、墓や仏壇だけでなく、さまざまな式典などで生花を飾るという行為に、いつも疑問を感じている。

今日、墓参りをした。
花が枯れていたので、挿し替えようと思っていたが、よく見ると、まだ茎や葉が青々としている。
たとえ花びらは朽ちていても、まだまだ命をつなごうと、精一杯生きているのを感じた。
とても生命の水を絶つことはできず、きれいな水に替えて、再び挿して帰ってきた。
この花は、9月の彼岸に生けたもので、もう1か月以上もこの墓で生き続けている。
毎週、墓参りに来るたびに、取り替えようと思うのだが、生命の力を感じ、水を取り替えるだけで済ましている。
花としての命は終わったかもしれないが、今もまだ頑張って水を吸い続けている。

枯れた菊の花
今日からは造花にした。
墓に造花を飾るくらいなら、やめておいた方がいいと言う人が多いけど、花がないとやはり殺風景なので、造花を挿して帰った。
本当は造花まで挿さなくても、墓の後ろの玉砂利には、春先から自然に生えたタンポポが、今でも活き活きと咲き誇っている。
私は、ずっとこのタンポポをかわいがってきた。
最初は、ひっそりと1輪が咲いただけだったけど、それがどんどん増えて、あまりにも茂ったので、夏に少し抜いてしまった(かわいそうだったけど、世間体に負けてしまった)。
今でも5株ほどが咲き誇っている。
西洋タンポポだと思うが、本当に生命力が強い植物である。

墓に生えたタンポポ

私は思う。
墓には、首を切られた痛々しげな生花を供えるよりも、玉砂利の上に活き活きと咲く雑草を育てる方が、先祖を供養するには理にかなっているのではないかと。

他人から見ると、きっと「非常識だ!」と怒られるだろう。
でも、その「常識」も、人間が勝手に作ったルールであって、自然の理から逸脱しているものがいかに多いか。
生け花にしても、人間の勝手な美意識の生贄になっているだけ。
誰もがそれに気がついていない。

もし、人間より大きく強い存在がいるとしたら、私はこんなことを空想してしまう。
人間の頭や手足をちょん切って、バランス良くケンザンなんかに挿して、やれ「芸術」だの「風流」だのと言っては楽しんでいる。
私たち人間は、こういうことを、何の疑問も感じずにやっているのだ。

花も私たち人間と同じ、ひとつの生命。
土の上に根差して懸命に生きて、やがて子孫(種)を残して枯れていく。
人間の勝手な美意識の犠牲となって茎を切り取られ、成長の途中で死んでいくことなど望んではいない。

私は、性格がおかしいのかもしれないが、こんな供花のちょっとしたことでも、人間の傲慢さを感じずにはいられない。

これからも墓には生花を飾らずに、愚直に生きていきたい。