2020.3.3
3月になり、周りが一気に春めいてきました。
多くの植物が、冬の眠りから一気に目覚める時期ですね。
やっぱり、この時期は、自然と心がウキウキしてきます。
我が家の庭にも、緑がどんどん芽生えてくるんだなぁ・・・
特に雑草は、ほったらかしにしていると、勢いよくどんどん成長します。
私は、庭の雑草を抜くことに、昔からすごく抵抗を感じてきました。
「庭ををきれいにする」という目的で、雑草を抜くのだけれど。
では、「雑草」とは何か。
「雑草」は人間が勝手につけた呼び名。何が雑草で、何が雑草ではないのか、私には理解できません。
私は、自生する植物が大好きです。
どこからともなく種が自然と風に運ばれてきて、偶然にも我が家の庭先に落ち、春になって自然と芽が出る。
これは、自分が意識的に庭に植えて育てたものよりずっと価値があり、いつも自然の偶然に感動しています。
雑草と呼ばれるものも、本当の名前を持っていますが、私は植物学に疎いので、それぞれに付けられた名前をあまり知りません。
でも、ハコベ、タンポポ、オオバコ、ツユクサなどは知っていて、これらは子供の頃から親しんできた草です。
幼稚園の頃にひよこを飼っていて、祖母から「柔らかいハコベを食べさせたら元気が出る」と言われ、来る日も来る日もハコベを探していました。
ハコベの白く可愛い花を見ると、春の柔らかな日差しと祖母の優しい笑顔を思い出します。
小学生の頃、友達とオオバコで草相撲をして遊んだ日々
雨上がりの朝、雫をまとったツユクサの可憐な花
雑草には、いろいろな想い出があります。
私が子供の頃は、今のように家に庭などなく、都会の小さな文化住宅の長屋でひしめき合って暮らしていました。
だから、今、我が家に庭があり、そこに雑草が生え、バッタやコオロギが住みつき、働きアリが巣を作っているのを眺めていると、すごく幸せを感じるのです。
近所の誰もが庭掃除に精を出し、ホームセンターで買った可愛い花を綺麗に植えて、周辺の雑草を「邪魔だ、害だ」と言っては抜く。
そうして整備された庭は、見た目には本当に美しい。
でも、自分が植えて育てた花だけが美しいのか。雑草には価値がないのか。
また、雑草が生えることで、そんなに自分や家族の生活に悪影響を及ぼすのか。
雑草を抜くと、バッタがいなくなり、コオロギの声もしなくなります。
秋の夜に、庭先からコオロギの声が聞こえてくるたびに、私はいつも感動しています。
自分の敷地の中に小さな自然があるなんて、本当に贅沢なことなんです。
見た目にあまり美しくない自生した草を「雑草」と呼び、邪魔だからといって引き抜くという行為は、つまりは自分と異なった色や体つきをしている人間への差別心に繋がっていると思えてなりません。
黒人差別、アイヌ差別、ハンセン病患者への差別など、その根源は同じなのではないのでしょうか。
色、形、性格が異なる人間も、それは「個性」だと思います。植物もまた同じ。
自分にとって害になるものでない限り、必要以上に区別することは、差別だと思います。
人間を差別することだけが「差別」ではありません。
いつの時代も「差別」がなくならないのは、人間のこうした意味のない区別を、何の疑問も持たずに繰り返してきているからだと思うのです。
私は変人で、おかしな考え方をしていると、ほとんどの人が思うのでしょう。
でも、私自身は、自分の考え方は正しいと本気で思っています。
たとえ変人と言われようが、私の考えは間違ってはいないと思います。